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2011年1月

2011年1月30日 (日)

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サンダカンの港です。港の側には魚市場があり、カツオやボラ、サメ、エイから得体の知らない魚まで様々な魚介類が売られていて、活気がありました。こちらは異常気象とのことで朝から晩まで3日連続で雨が降り続き、死者も出ています。雨が弱まった時を見計らい、町に出て、写真を撮っています。町中をすべて歩くのに一時間もかからない小さな町ですが、かつては多くの日本人が暮らしていた場所でもあります。「サンダカン八番娼館」という山崎朋子さんが書かれた有名なノンフィクションがあるので、知っている人も多いと思いますが、暮らしていた日本人はからゆきさんと呼ばれる日本人の娼婦たちで、明治以降九州の天草地方の女性たちを中心に、彼女たちの渡った先はシベリアから東南アジア、アメリカ大陸、果てはアフリカまであらゆる土地にからゆきさんはいたと言われています。僕は横浜の黄金町のじゃぱゆきさんと呼ばれる外国人娼婦たちを取材していた当時から、その語源であるからゆきさんの暮らした町を訪ねたいという思いを持ち続けていたのですが、今回その思いが叶った次第です。サンダカンの町は、以前は寂れた港町だったようですが、海沿いを中心に新しいビルが建ちはじめ、観光開発が少しずつ進んでいます。第二次大戦中の戦火で、町の建物は建てかえられてしまい、からゆきさんたちが働いていた娼館は、今は薬局になっています。町の外れにはこの地で亡くなったからゆきさんの墓地もあり、そこからは彼女たちが帰ることができなかった祖国へとつながる海が見えました。からゆきさんたちが、この地に降り立った港では今日も多くの人が行き交っています。

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2011年1月27日 (木)

コタキナバル

昨日は、嫌いな飛行機を乗り継いでバンコクから、マレーシアのコタキナバルにきました。ひとことで言ってしまうと、大変面白い町で気に入りました。マレー系、中国系、インド系などさまざま民族が入りまじり、町のつくりもイギリス植民地時代のロータリーがあったりして、興味深いです。町の雰囲気は一見フィリピンのミンダナオに似ているのですが、あちらより格段に町は静かで落ち着いています。食べ物もおいしいので、これからの滞在が楽しみです。写真をアップしようと思ったんですが、ホテルの無線ランの調子が悪く、自分のパソコンが使えずネットカフェでこのブログをアップしている状態なので、アップできませんでした。夜にはアップできればと思っております。今回、過去にこの島に暮らした日本人たちの痕跡を求めて、やって来たわけですが、中華料理屋で一杯のラーメンをすすっても、もしかしたら、その人たちも同じようなものを食べていたのかと思うと、なんとも言えない気持ちになります、

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2011年1月25日 (火)

フライデー中條記者のこと

今朝、ホテルに併設されているレストランでパソコンを立ちあげたら、最近はテレビや週刊誌で活躍している窪田さんから、訃報ですと書かれたメールが届いていた。何だと思い、メール読むと、思わすえっと声をあげてしまった。フライデー記者の中條さんが亡くなったというのだ。昨今の出版不況の煽りでフライデーの専属記者ではなくなったと聞いていたが、新たなニュースが訃報とは驚かずにいられなかった。僕がフライデーにいたのは今から11年前で、バブルの頃に比べたら、勢いは無いよと先輩方は言っていたが、まだまだ雑誌が元気で新人の僕でさえ、好き放題にできた時代だった。同期には窪田さん、ニューズウィークの山田さん。フライデーに出たり入ったりしている梅島アキラがいて、口で言われるだけでは納得しないひと癖もふた癖もある新人たちに身をもって現場を教えてくれたのが、草創期からフライデーで活躍されていた中條さんだった。中條さんとの思い出で心に残っていることが2つある。1つは、フライデーに入ってすぐ大久保清の事件を振り返る企画で群馬に行ったのだが、取材の合間に中條さんが、時間ができたから、伊香保温泉を見物に行こうと言いだした。当時右も左もわからなかった僕は、取材の合間にさぼって見物なんかに行っていいのかと、腹を立てて、伊香保温泉についても車から降りず、さらには東京に帰ってから編集部で、中條さんは仕事をさぼると公言してしまった。今では、勿論、現場に出ても四六時中働くわけではなく、時には息抜き必要だとわかる。新人カメラマンの大暴走だったわけだが、中條さんには、「余計なこといいやがって」と、事あるごとにその時のことをチクリと言われた。そしてもう一つは、群馬県であった殺人事件の取材、写真週刊誌ではいくら良い文字データを集めても、被害者や加害者の写真がないと記事にできないことが多々ある。何日も取材して没ということが、良くあるのだ。この時も、話はたくさん集まったのだが、肝心の加害者の写真が手に入らなかった。それこそ何人もの関係者を当たったが、出てこない。こりゃ厳しいかなと思った時、確か締め切りの日に、常識からすればとんでもない形で写真を入手したのである。「こりゃ、誰にも言えねぇぞ八木澤」と低く渋い声で、中條さんに言われているので、この場では詳細を書けないが、きれいごとではすまされない週刊誌の現場というものを、教えてくれたのでした。入手した写真というのが、とても良い写真でした。事件は加害者の男が暴行目的で女子高生を誘拐し殺害、身代金を要求して、逮捕されたというものでした。男は事件のだいぶ前に家庭が崩壊し、妻子とも別れ、両親と暮らしていたのですが、男がずっと持っていた写真は、まだ家庭が幸せだった頃、妻と子どもの三人で子どもの七五三を祝うため神社の境内で写されたものでした。男の表情もどこか誇らし気で、中條さんが写真を見るなり、「こりゃ良い写真だぞおい」と感慨深げに言ったのを覚えています。中條さんは身をもってきれいごとではすまされない週刊誌の現場を教えてくれたのでした。そして、とにかく事件の現場が好きな人でした。当時、編集部で顔を合わすたびに、よく中條さんに言われました。「八木澤、お前は気楽でいいな。フライデーで仕事をしてながら、南の国のヤシの木の下でひとり小屋掛けをして住んでいるみたいだからな」と、編集部の記者やカメラマンが、事件や張り込みで動き回っている時に、僕はふらりと休みを取っていなくなってしまうことがあったので、そんな印象を持たれたのだと思います。今晩、お通夜とのことですが、奇しくも中條さんの言葉の通り、残念ながら南の空の下にいるので、参列することはできません。「まったくあいつらしいな」と空の上で一笑してもらえればと思います。南国から、ご冥福をお祈りいたします。ありがとうございました。そしてお疲れさまでした。

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2011年1月24日 (月)

バンコク2010 イサーン 

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電子書籍発売記念ということで、2010年5月のバンコクをしつこく振り返っていますが、もういい加減にしろという声が聞こえてこないので、もうちょっと続けようかなと。イサーンという何とも哀愁をさそう響きは、タイ東北部のことで、バンコクなどの都市部に多くの出稼ぎ者を送りこんでいる農村地帯のことです。経済が発展していくと、日本でも中国でも同じことが言えますが、安い労働力を農村に頼るのは資本主義の常であります。そして今回のデモでは多くの東北部出身者がデモに参加していました。果たして彼らが数ヶ月もバンコクに留まりつづけた動機は何なのか、金が支払われていたからだという人もいますし、都市と農村の階級闘争という見方をする人もいました。おそらくどれも間違っていないのだと思います。誰もがそれぞれの思いを秘めてバンコクにやって来たのではないでしょうか。皆が皆、同じことを考えながらの闘争など有り得ないからです。誰もが己の欲のために全力を尽くすことによって、何かが生み出されるのではないでしょうか。それ故過去の革命運動では、革命後に多数派が少数派を粛清したり、元同志を殺害したりするようなことが起きたのでしょう。バンコクの中心部を占拠していたイサーンの人々は強制排除後、故郷へと帰って行きました。その後を追って、郡山カメラマンとイサーンを訪ねた時に、現地の農民の男性を撮影したのがこの写真です。フリーになってから、カメラマンと一緒に現場に行くことなどほとんどなかったのですが、郡山カメラマンとのイサーンの旅は、屋台でメシを食いながら、写真のことなど話題が尽きず、楽しい思い出となっております。できればイサーンには定期的に通いたいと思っているのですが、なかなか果たせておりません。バンコクでイサーンの人に会うたびに、イサーンへ行きたいという思いが募ります。ちなみに昨日、肩こりと首の痛みがひどいので、アショクBTS駅の下にあるマッサージ屋に行ったのですが、そこで強烈なマッサージを施してくれたのもイサーンのオバサンでした。おかげでだいぶ楽になりました。

http://itunes.apple.com/jp/app/id413623545?mt=8

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2011年1月23日 (日)

バンコク2010 ラチャダムリ界隈のこと

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今日は昼間、伊勢丹の付近で取材をしていたので、その足で、強制排除の日に多くの死傷者が出たラチャダムリ界隈に向かいました。僕が目撃しただけで、あの日のラチャダムリで5人は撃たれました。そのうちの一人が上の写真です。頭が割れているのでおそらく即死だったと思います。ただ救護隊の方々が銃弾が飛び交う中、心臓マッサージをするなど正しく必死に看護していました。その横で僕はカメラを構えていたわけです。以前子どもの背後にハゲタカがいる写真でピューリッツア賞だか何か有名な賞を撮ったカメラマンが、何で子どもを助けないんだと批判され、自殺してしまったことがあったと思います。何で自殺したのか当時は不思議に思ったものです。カメラマンなんだから、助けるより前に写真を撮るのが当たり前だと、ただ20代、30代と年を重ねていくと、何となくではありますが、自殺したカメラマンの気持ちもわかります。カメラを持って悲惨な現場に行けば行くほど、カメラを持った傍観者にすぎない己の存在に、嫌悪感を感じることが少なからずあるからです。特にニュース写真の現場は、関係性を築くことなく、他人の家に土足でズカズカと入りこむようなものですから、なおさらです。それでもかれこれ、10年以上にわたって、僕はまったくどう仕様もない人間だなと思いながら、今も飽きずにカメラを向け続けています。昨年取材したタイの騒乱にしろ、僕は人間に興味があるから、事件現場からストリップ劇場、様々な現場に通い続けています。様々な事象にカメラを向けながら、結局は自分自身は何者なのかということを探し続けているような気がします。 今日の昼過ぎ、頭を撃たれた男性が運ばれていた現場を訪ねてみると、警備員のお兄さんがひとり立っているだけで、人の姿はありませんでした。僕が現場にカメラを向けていると、お兄さんが不思議そうな顔で僕のことを見ていたのでした。

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2011年1月22日 (土)

バンコク2010 騒乱時のパッポン http://itunes.apple.com/jp/app/id413623545?mt=8

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屋台が建ち並び、ゴーゴーバーなどの客引きが怪しげな日本語で話しかけてくるバンコク一の繁華街パッポン。さすがに昨年5月の強制排除前後は閑散としていました。この写真を撮った時も確か外出禁止令の時間が迫っていて、慌てて宿であるマレーシアホテルまで早歩きで帰ったのを覚えています。とにかくタクシーがつかまらず困りました。今日、久しぶりに、バンコク在住の友人に取材を手伝ってもらい、パッポン界隈を歩きました。すごい人で歩くのに大変でした。パッポンに行ったのは、もし会うことができ、写真を撮ることができたら、いいなと思う日本人がパッポン界隈に出没するというので、タイ語が堪能な友人に取材を手伝ってもらいながら、捜索したのです。残念ながら空振りでした。何度か足を運び、出会いたいと思っております。僕の仕事はシャッターを押す時間より、歩いたり、調べ物をしている時間の方が遥かに長く、物事を見極める力であったり、己の生き様が写真に現れるわけで、極端な話、カメラのシャッターさえ押せれば、技術は最低限のものがあればいいのかもしれない。ただそれを下手くそな写真の言い訳にするのはもっての他だが、そう考えると表現とは何とも矛盾をはらんだものなのではないでしょうか。今日は、朝からインタビューと撮影、原稿書き、それからハンバーガーにかぶりつきながら、日本のサッカーを見て雄たけびをあげ、パッポン界隈での捜索と、慌ただしい一日でありました。そしてようやく、友人の車で送ってもらい、ワタナベマンションに戻って来た次第です。

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2011年1月21日 (金)

2010 バンコク 強制排除の日 続き

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写真はバンコク在住のカメラマン齋藤さんが撮影した5月19日の写真です。どこかに僕も写っています。ぜひ探してみてください。ちょうど軍がデモ隊に向かって発砲している時のものです。さすが経験豊富な齋藤さんですね。こんな状況でもしっかりとぶれずにおさえています。僕の電子書籍の中にも同じような状況で撮影した入っていますが、写真の良い悪いは見た方が判断してください。カメラマンは勝手なもので、自分の写真が一番だと思っている生き物ですから、自分の写真に関してなかなか冷静な判断ができません。写真のような感じで5月19日は取材していたのですが、そんなシーンの連続だったわけではありません、飯を頬張っている写真もあるので、こちらの写真も眺めて笑ってください。

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2011年1月20日 (木)

バンコク2010 強制排除の日

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突然ですが、ただいまバンコクにいます。何も突然旅に出たわけではなくて、報告するのを忘れてました。まだこちらは1月19日なので、強制排除からちょうど8ヶ月経ったんですね。昼間街を歩いていたら、あっそうかと思い出しました。特に何があるわけじゃないですが、時が経つのは早いものです。こちらには、新たな企画を持ってきています。今年は30代を費やし取材したいくつかのテーマをアウトプットしたいと思っています。それと同時にインプットも必要なわけで、なんとなくではありますが、取材したいテーマが見えて来た次第です。それは日本人にかかわることで、過去から現在、そして未来の日本まで照射できるものでありたいと勝手に夢想しています。ただひとつこだわりたいのは、名も無き人々の姿や声をしっかりと写し込むことです。今回は下見的な色合いが強いですが、バンコクからはじまり、マレー半島を南下しボルネオまで行きたいと思っております。2010年5月19日は、タイにとって何かが終わった日ではなく、また何かが生まれるきっかけとなった日でもあります。あの日の現場で多くのことを学ばせてもらいました。そんな記念すべき日である19という数字の日に新たな取材をはじめられることはうれしいかぎりです。

  

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2011年1月18日 (火)

バンコク2010 青年の目に思ったこと

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5月3日 赤シャツバリケードにて。カメラにもたじろがず、デモ隊の青年は一点を見つめ続けていた。バリケードで青年の目を見たとき、ネパールで武装闘争をしていたネパール共産党毛沢東主義派のゲリラ兵士の目を思い出した。西ネパールの山奥で出会った青年や少女は、澄んでいるのだが、どこかに頑迷さのある動物で言えばヤギのような目をしていた。目の前の青年は、共産主義のシンボルである赤い帽子をかぶっていた。果たしてその帽子の意味することを青年は知るのか、知らないのか、ただ自分の行動には一点の迷いもないように思えた。赤シャツの背後にいるタクシン元首相及びタクシン派の政治家の中にはかつて存在したタイ共産党で武装闘争していたものもいるという。田中角栄を思わせるバラマキ政治家タクシンと元共産主義者の連合は、日本人の感覚からすると、ちょっと理解に苦しむ野合でもある。それはアジア的リアリズムの産物と言えるのかもしれない、己の利益のためなら利用できるものなら山賊でもなんでも利用するという糞味噌リアリズムは、毛沢東率いる中国共産党をして革命の成功へと導いた。中国から移民である華人の影響力が強いタイは、その伝統を受け継いでいるのかもしれない。それに比べると、日本の革命運動である1950年代の日本共産党の山村工作隊、1970年代の連合赤軍が教条的で良い子の集団に見えてきてしまう。広範囲な支持を得ることはなかった日本の革命運動は、ヤギの目をした青年を大量に生み出すこともなかった。しかし、ここタイでは、ヤギの目をした青年をいたる所で見かけた。ネパールでは多くの若者が共産主義とは何ぞやと知らず、銃を持ち命を落としていった。この青年は、命を落とさずすんだのか、それとも。

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2011年1月17日 (月)

バンコク2010 取材裏話 

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バンコクでの滞在はマレーシアホテルという知る人ぞ知るホテルに泊まっていました。いつもはバンコクの外れに宿を取るんですが、今回はデモの取材ということもあり、歩いて現場に行けて、なるべく安いホテルを選ぶとなった時、マレーシアホテルになったのです。ただマレーシアホテルは、男性カップルの姿が多いのです。僕はそちらの嗜好はないのですが、そのホテルに泊まっている以上、そう思われている節もあり、よくねっとりとした視線をスキンヘッドの欧米人から浴びせられました。ちなみに報道陣の姿はまったく見かけなかったです。ラマ四世通りのデモ現場に非常に近く、大変助かりました。しかし、騒乱終了後速攻でチェックアウトしたのは言うまでもありません。滞在日数は三週間ほどでしょうか。取材期間中、何度かルンピニ公園の芝生の上で、レジャーシートを敷いて寝ましたが、デモ参加者は、芝生だけでなく、バンコク中心部のいたるところで寝ていました。写真の男性は、バンコクの有名なショッピングモール近くの連絡通路で寝ていました。騒乱の間は19日を除いて、いくつかのショッピングモールは空いていて、当ても無く歩いたものでした。意外に思われるかもしれませんが、海外に出るとショッピングモールを歩くのが好きで、ついつい買い物をしてしまうのです。あまりに買い物をしすぎて、家に置き場所が無くなってきたので、最近は控えていますが、この騒乱取材終了後も、ジーパンを4本、バックを3つ、などなど、かなりの散財をしました。バンコクで行動をともにした郡山カメラマンから、こんなに買い物するカメラマンははじめて見たと驚かれてしまいました。何だか取り留めの無い話しになってしまいましたが、裏話の続きはまた明日。

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2011年1月16日 (日)

バンコク2010 あの暑かった5月

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5月1日 バンコクにつき、ホテルで旅装を解くと、すぐに赤シャツと呼ばれたデモ隊が立て籠るバリケードへと向かいました。意気込んでバリケードへと足を運んだものの、熱心に演説をする赤シャツ幹部とは裏腹に、赤シャツ幹部が陣取るバリケードから離れた場所にあるルンピニ公園周辺のバリケードでは、緊張感という言葉とはかけ離れた空気が流れていました。鬼気迫る表情で演説をする幹部は約18日後の強制排除の日、デモ参加者をほっぽり出して、そそくさと警察に投降してしまうのです。血を流すのはいつも、名も無き人々なのであります。それはそれで、そうした人々の意志というものが少なからず存在している以上、仕方のないことなのですが、やはりやるせないことです。

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2011年1月15日 (土)

「タイの悲しみ、バンコクに流れた血」発売となりました

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お知らせです。昨年5月に取材したバンコク騒乱をまとめた写真集が中央公論新社より電子書籍として発売となりました。ぜひダウンロードしてご覧いただければ幸いです。今後このような形で取材者が作品を発表していくケースは増えていくのではないかと思います。今まで電子書籍というと既存の本を電子化して発表すると言うケースがほとんどだったと思いますが、今回の写真集に関しては、いくつかの写真は雑誌で発表していますが、ほとんどが未発表のものですし、原稿も書き下ろしています。電子化することにより、格安の値段で、今までの質を維持したものをお届けできたと思います。近く英語バージョンも発売の予定です。電子書籍の分野で、今までの概念を覆すまったく新しい試みでもあると自負しております。そういった意味で広くご意見、ご感想を伺いたいと思っています。購入はこちらからお願いします。 http://bit.ly/f8hnKo
電子書籍発売記念ということで、半年前のバンコク取材を当時の写真から振り返りたいと思います。アップした写真はバンコク取材に向かう途中、飛行機が故郷横浜上空を通過したので、凝視した後、カメラを取り出し撮影。今回の取材は危険が伴い、万が一のこともあるなと思ったので、眼下に広がる横浜をちょっとセンチメンタルな気持ちでシャッターを切りました。ちょっと大袈裟に聞こえるかもしれませんが、危ない状況にも多く遭遇しました。そのへんの話もおいおいアップしていきたいと思います。

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2011年1月13日 (木)

プロサッカー選手の稲本選手がツイッターで女性といるところを実況中継されたり、デジタル世界がますます日常の中で大きなウェイトを占めている昨今、この動きはますます進むんでしょうね。稲本選手はまったくの災難でしたね。これも有名税とあきらめるしかないでしょう。このところふと思うのは、日頃何気なく話している言葉や、生業としている写真や文章を書くこと、僕を形づくっているものというのは、様々な人との関わりの中から生まれてきたということ。言葉から刺激を受けたり、真似をしたりしながら、今の自分がある。なんでこんなことを書いているのかというと、先日写真家の今枝弘一さんが書かれた文章を読んでいたら、今枝さんがお世話になり先生と読んでいる写真家との交流が書かれていた。文章の中に出てくる、先生が今枝さんへ伝えた写真への心構えは、よく今枝さんに言われたことでもあった。その先生は既に亡くなられているのだが今枝さんを通じて、直接面識の無い僕に伝わる。それがまた誰かに伝わるかもしれない。言葉に魂があるという古来からの日本の考え方。恥を承知で言えば、少なくとも先生は僕の写真の中で生きている筈なのだ。そんなわけで、デジタル全盛のご時世ではありますが、それを使うのはあくまでも人間なので、自分の姿を冷静に見つめる気持ちは大事にしたいと思った次第です。

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2011年1月12日 (水)

ワールドプレスフォトに応募するため、朝から写真のキャプションを書く。昼過ぎに何とかメドが立ち、気分転換に書店に立ち寄ると、昨年五月に取材したタイの写真集が出ていた。著者は三留理男さん、第一回土門拳賞受賞者である。当時、現場でも顔を合わし、ご高齢なのに現場に出続ける姿は凄いなと思い、密かに舌を巻いていた。ところが、写真集を開いてみると、がっくり。見るべきものは、三留さんのタイ社会をグローバルに見る視点ぐらいか。それにしても、あの時現場には僕も含め働き盛りのカメラマンが何人もいたわけで、本来なら我々の誰かが写真集を出さなければいけない。この写真集は御大からの叱咤激励でもある。そういった意味で僕にとってほろ苦い写真集である。

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2011年1月 9日 (日)

関内にて、坂本兄やんから取材を受ける。最近戦場カメラマンの渡部陽一さんが、テレビで活躍していることもあり、カメラマンという存在に少しは世間の注目が集まっているのかな。内容はまだ雑誌が出てないので、言えないですが、ふっふっふっと笑っちゃうようなことです。たまには紛争地にも行くので、依頼が来たと思うのですが、僕自身、自分の肩書きに関してあんまり気にしてなく、女性の裸を撮ることもあるので、エロカメラマンと言われようが、それこそフォトジャーナリストと言われようが、どうでもいいのです。気分的にはカメラをぶらさげたおっちゃんぐらいの気持ちなんです。坂本兄やんは業界紙の記者をやりながら、いくつもの雑誌で、最近は書評を書いている。偉そうなことを言わせてもらえば、提灯記事はいらないので、本音で時には辛辣な言葉を吐いてもらいたいものである。今後僕が本を出して、批判されたら、それはそれでこの野郎と鉄拳の一発や二発見舞ってやろうかと思うかもしれませんが、年中顔にタンコブをつくっている批評家というのがいてもいいのではないでしょうか。兄やんには痣だらけの批評家を目指してもらいたいものです。

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2011年1月 8日 (土)

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新宿の外れにある中華屋にて、バンコク氏、釜井と会合。昨年末から通い始めたその店は、広々とした店内の割に、客が少なく馬鹿話をするにはちょうど良い。客は水商売の中国人か疲れたサラリーマン、店員は接客もそこそこにパソコンで中国のドラマを見て、客を放ったらかしにしてくれるので、ずるずるとだべっている我々にはまったくもって好都合。何だかんだ三時間ほど滞在。話題にでだのは、最近釜井がはまっているタイやフィリピンにあるゴーゴーバーをイメージしたようなバー。年末のカウントダウンもそこで過ごし、かなりの散財をしているらしい。彼の地のゴーゴーバーは売春と直結していて、それなしには成立しない。もちろんここ新宿では水着を着た若い女性と酒を飲んで話すだけで、売春はない。歌舞伎町にあるそのバーの前を通ったら、店の前には行列ができていて、大賑わい。そこに入れない客を目当てに客引きまで集まっている始末。なぜか中華屋では、冬眠中のカメみたいに黙っていた釜井も店の前に来たら、急に俊敏に動き出して、いろいろと説明してくれた。外から眺めたところ、照明は一見バンコクのゴーゴーバーのようだが、空間はゆったりとしている。そもそもゴーゴーバーはベトナム戦争中に休暇でバンコクやマニラを訪れた米兵が女性を買ったことに起源がある。店内のきつい照明と大音響のロックミュージックは、兵士たちの気持ちを癒したのだろう。ただ、バンコクで入ったゴーゴーバーは、何度は入っても落ち着かない。西洋人が心地よいと思う空間は、僕にとってはただの騒音に囲まれた空間でしかない。新宿の店には入ったわけではないので、正確にはわかりませんが、釜井によれば、バンコクのゴーゴーバーに比べれば、うるさくないと言う。少しは日本ナイズされているようだが、照明は現地のままだ。にぎわう店内を眺めた時に、兵士たちを癒した原色の空間がなぜ今ここ日本で求められるているのか、兵士たちの抱えていた闇と、客の抱えているものというのは、どこかで繋がっているのかもしれないなと思いました。ちなみに写真はタイのゴーゴーバーの店内です。

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2011年1月 6日 (木)

今日もネガスキャン、その合間にマスター、達ちゃんと雑談。二年前の野球のビデオを見る。その後、夜から日笠氏と打ち合わせ。急に冷え込んできた中、バイクで帰宅。

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2011年1月 5日 (水)

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こうなったら、元旦から続いているブログの更新をどこまて続けられるか頑張ってみたいと思います。今日は、黄金町での仕事はじめ。相変わらず狭い二畳のちょんの間にて、ひたすら単行本に使う写真のスキャニングをしていました。ネパールで15年ほど前に撮影したモノクロネガをまったくデジタル化していなかったので、この機会に出来る限りやっておこうと思います。まだまだ道半ばといったところ。二畳の仕事場は、数年前まで娼婦たちが日々体を売っていた場所で、まだ微かに香水の匂いが部屋の中に残っています。日々換気をしているのですが、完全には消えません。この匂いを嗅ぐたびに、この部屋の主は未だに彼女たちのような気がして、いつまで経っても客人のような気分のままです。売春は一掃されてしまいましたが、街は売春とともに生きていた時代の方がまだまだ長いわけで、僕は新参者にすぎない。今日この街の中で、働いていた女性たちの影をほとんど感じることはありませんが、唯一感じるのがこの部屋の匂いです。この部屋で体を売り続けた女性とは、どんな人だったのでしょうか、今は何をしているんだろうか、ちゃんと稼いで故郷に家を建てることができたのか、こんな小さな部屋ですが、様々な人の思いが詰まっている部屋でもあります。今年は、もがきながら、少しでも多くのものをこの部屋から生み出していきたいと思っています。

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2011年1月 4日 (火)

年賀状を今年も少なからずいただいているのですが、生来の怠けもの故、まだ返事も書いていない始末。慌ただしい年の瀬にどうやって皆さん時間を捻出しているのだろう。おそらく寒中見舞いとして忘れた頃に汚い字で返事が届くと思いますので、まったくいい加減な野郎だと、笑ってほっとひと息ついてください。そんなわけで、今日は一日中、家にこもって読書。偉大なフォトジャーナリストである故岡村昭彦さんの岡村昭彦集4、今度取材したいと思っているからゆきさん関連の本を数冊流し読み。特に岡村さんの著書は、35年ほど前の原稿をまとめたものなのだが、今読んでもまったく色あせておらず、様々な示唆に富んでいる。特にアイルランドに関する考察には、何度読み返しても教えられることばかりなのだが、それ以外にもカメラを持つ者の心構えについても語られていて、どきりとする。己への自戒を込めて、心に残った岡村さんの言葉。「写真はそれを撮影する人の心の襞であるような気がします。写真家、とくに報道写真家というものは、詩人に非常によく似た職業ではないでしょうか。私の、世界のどこの国の友人も詩人です。友人がしゃべっている言葉は、そのまま詩の言葉でもあります。ところが、日本のカメラマンだけでなく、外国のカメラマンの中にもラフな言葉を話す人たちがいます。私はそれをその人間の心の襞として受けとめるのです。言葉でカメラマンの価値判断をしてしまうのです。文字に興味を持っていない、写真が万能だと思っているカメラマンには、自分の口から出る言葉をほとんど気にしない人が多いようです」『岡村昭彦集4』(筑摩書房)

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2011年1月 3日 (月)

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成田山に初詣に行ってきました。参道を歩いていたら、新宿などの繁華街で良く見かける標語が目についた。この人たちの団体は聖書配布協力会というそうです。さらに歩いていくと、インチキ虚無僧までいて、何とも雑多な風景が広がっていました。アラブ圏でキリスト教徒があんな標語を掲げてムスクのまわりを歩いていたら、間違いなくトラブルになるだろうし、その逆もしかり。この寛容さというか何にもなさが、日本の良さなんだな。

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2011年1月 2日 (日)

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今日はいい天気でしたね。墓参りのついでにパシャリ。

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2011年1月 1日 (土)

新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。ただいま午前2時半、ファイャーヨーコさんの引退興行の取材を終えて、帰宅したところです。横浜で初詣を何て思っていたんですが、結局面倒くさくなり、ハマの辰蔵と井土ケ谷のファミレスでお茶を飲んで帰ってきました。今年は、いろいろと良い報告を皆さんにできるように頑張ります。ここ数年続けて来たいくつかの取材の成果をまとめることができればと思っています。大晦日は、ナニワの大将と一緒にヨーコさんの引退興行に行ったんですが、その帰りの車中、リニューアルされたブログの写真を見て大将が、「あれ、ヤギの写真か?」と聞いてきたのですが、まぎれもなく僕の写真ですよ。ネパールの首都カトマンズの写真です。

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